「電華」

金の装飾。

窓の外から見える街には似合わない古風な価値観のベッドに横たわる温い二人。

しかしいつの時代でも変わらないことはある。

男は女を脇に抱きながら人工の太陽に夢を馳せていた。

「オレは金さえあれば、やってやる。それが出来る、いつも足らないのは金だけだ。お前ならわかるだろう?"電華"のお前なら。華のお前なら。」

抱いた後、男は女よりも先にまだ上がってもいない太陽を見るものだ。

男は女を振り向いて言った。

「本当にいいのか?オレは、お前に金をせびっている訳じゃない、それはわかってくれ」

女が笑って語りかける。黒い髪、白い頬に、虹色の光の輪。

「あなた、誰だって、いつかは必ず死んでしまうのよ。」

何も惜しまない。些細なことだ。

女の眼差しは懐かしいものを見るように、男を映していた。

いつか別れが必ずくると言った彼女は、とても幸せそうに男を見ている。

ずっと。

その瞳は人々を魅了する、様々な人々が欲しがる様々な色を持っていた。

華の香り。静電気と、絹の蛋白質と、女の華の香り。

人工の太陽。

偽物と本物。

でもここにいる彼女は違う。

巨大なスクリーンの中の彼女とは違う。

生身の華。

抱きしめれば温かくて柔らかくて、そして冷たい。

「愛しているよ、華姐」

古くさい表現。

球面の向こうの消失点に向かって伸びる規則的な光の筋。

無数の人々。無数の光。

昼間よりも明るい夜。暗闇の中の下品なRGBに何度心を救われただろう?

わざとらしい愛の告白も、

わざとらしい男の台詞も…

笑える。

それでいい。それで少しは救われるだろう。

何も要らないと思い詰めてこの都市にやってきた者にも、「彼女」と愛されるシンボルがいる。

上を見上げれば光り輝く新作映画のCMが、電子掲示板で輝く「彼女」が。

下を見れば、溶けてぐちゃぐちゃになった泥のチラシの中に咲く「彼女」が。

誰かが金属錆で黒くなった手をゆっくりと近づけ「彼女」を拾い上げる。

自分は寒くてコートを着ていても、写真の華姐は薄着で。きっと温かいのだろうな…と誰もが思うのだ。

無数の電華の中の華姐。

私たちの母。私たちの娘。私たちの女。

緑く光る高層ビルのすべての広告に彼女がいる。

「"華姐"新作映画、近日封切・STAYBACK,I KILL YOU」

スクリーンの向こうで彼女が笑っている。

素敵な人。

華姐は思う。

アイボリーの光沢素材のドレスは一足ごとに赤い絨毯の上に渦を描き、彼女の女優生活の将来を占うのだ。

「どうでもよくて素敵なこと」

瞬くフラッシュが彼女の成功への賞賛と羨望。

赤い絨毯、華奢な足首、腰まで届く髪の豊かなウエーブ…

ホテルのロビーから出るのにも、彼女の周りに影は存在し得ない。

ゆっくりとゆらめく黄金の華。

正面を向いて、微笑みながら歩く華姐は、ビルの電子掲示板と同じ笑顔だ。

無数の光の粒が彼女の顔を、シンボルを映し出す。

彼女はもはやシンボルだった。

しかし華姐は人々の何を顕すシンボルなのだろう?

侍女の妖炎が手際よく車のドアを開ける。

「大姐、用意しておきました、テーブル用の花束。」

妖炎は用意した血のように赤いバラの花束を無機物を見る目で扱う。

花の味を知らないのだ。華姐はそんな妖炎の頭を撫でる。

「ありがとう妖炎、今日はもういいの、自分で行くから。帰ってお休み。」

「…せめて場所までお送りします。」

真っ黒なカーボン装甲をまとった侍女の妖炎。赤いバラを持った自分が安物アクションドラマの大根役者に思えて落ち着かない。

華姐には、きっと似合うだろう。いい匂いのするママのように。

「…また例の彼ですか。なんて言ったっけ、サンデー?」

妖炎は大きな黒豹のような体を折り曲げ、仔猫の瞳で主人華姐を見上げた。

「大姐、私はなんだか心配。お願いだから護衛をさせて、貴女は私が護る。」

華姐は微笑を向ける。

何も知らない子供のように、すべてを知る老人のように。

「サンドロよ…妖炎、彼は大丈夫よ。じゃあ車で待っていて、今日は食事をするだけだから。かわいい妖炎。」

妖炎は装甲スーツを音もなく運転席に滑らせ、完全にすべてのドアをロックしたのを確認する。

主の吸う空調に気を遣い、周りには柔らかいクッションを敷き詰めておき、己の足下は鋼の板を感じている。

愛しい主のために限りなく優しく、アクセルを力一杯踏み込む。

高速の立体交差、等間隔に流れるオレンジのライト。

見上げれば巨大なビル群、緑の光。

妖炎の黒い瞳にライトが写り込む。

彼女の運転する華姐の黒いデロリアンはもう100年以上も前に作られた同名の名産品レプリカだ。

だが中にはどんな銃弾も爆風も届かない。正面衝突したとしてもフォーミュラ・ゼロよりセーフ機能が高い最新装備だ。

それなのに金持ちなら常識の運転手WIRE連結ではなく、力任せのレトロギアだ。運転出来るのは手慣づけた妖炎ぐらいだろう。

ドアは黒々と羽を広げた鴉のように上に開く。

時速500Kで高速を走る艶やかな鴉。

華姐、君には似合わないよ。黒なんて。もっと洒落た車を紹介するのに。

そんな風に彼らは笑う。

妖炎は後ろで黙ってそれを聞いている。

華姐はそんな時いつも妖炎に向かって笑って言う。ねえ、バットモービルとどっちがかっこいいかしら。

妖炎は笑わない。まばたきをするだけだ。バットモービルが何なのかも知らない。

その後、大姐はそのバットナントカよりも、この車と貴女の方がずっとかっこいいのよと笑うのだ。

華姐が笑う。

「最高だ。最高に美しい。」

…私は彼女がいいと言うのなら、彼女の笑顔が見られるならそれでいい。

笑えばみんなが側に寄ってくる。華姐の笑顔が見たいのだ。いつも、彼女の周りには人がたくさんいる。

無防備にも、彼女は誰も拒むことはない。どんな小さな子供も。老人も。行き場のない若者も…

どんな愛し方をすれば彼女を独占できるのだろう?

皆そう考える。

後部座席を振り返り、主のために作った巣、柔らかな淡いオレンジのクッションに包まれて眠る華姐に声をかける。

海沿いに青くライトアップされた巨大な2045年製の万博アーチが見える。そこに主の指定した高架下の玄人レストランがある。汚くて美味い。

「大姐、着きました。本当に一人で?信じられない、あんなところ。デートならもっといいレストランがあるのに」

華姐は少しけだるそうに微笑んで妖炎を見る。

「サンドロがいるわ。花を飾ればきっともっとおいしそうに見えると思うのよ。」

呆れながらも妖炎は車を降りて、今にも駆け出しそうな華姐の肩に一番暖かいコートを掛けた。今日は冷え込むだろう。息が白い。

「お気をつけて。私はここで待っています。」

従順な黒豹はしっとりと主に頭を下げた。

「有難う、妖炎。」

華姐は少女のように頬を紅潮させ、花束を抱えて足早に歩き出した。妖炎はその背をじっと見つめている。

私の手を離れて行く主。

頼りない仔猫を里子に出された母猫の気分。あの柔らかい人を護るのは私、あの微笑を護るのは私…。

周りを見渡せば、本当の夜だ。ジャパニーズブラックインクの青みがかった闇。

ここはライトすら擦り切れている。

2045年製のどうしようもない巨大万博記念アーチ。あの万博もコケたらしい。日本政府の考案したダサダサ「世界オーガニックコンピューター博覧会」。

トリ肉みたいな蛋白質の塊がDNA螺旋状にデザインされたサイアクにゲロなシロモノ。それに電気を通すのだ。多分な。

ドブとコンクリと冷たい暗闇の中でLEDが光っている。誰かがいる。

赤と黒のシルエット。

ぼそぼそと話す声。

時折、明かりに露出する毒々しい落書きだらけのコンクリート壁の前を歩いている。

ほぼ白に近い金髪が潮風でウニみたいにハネているのが見える。金髪の、黒いコートを着た少年。

黒いコートから少しづつファイバーが揺れる。蛍光スケルトンコードが通信状況を伝えている。血尿みたいな最低なレッドオレンジ。状況はノイジー。

コードは顔にかけられたアルミフレームの黒いゴーグルに繋がっている。どこにでもいるワイアヘッドのクソガキだ。

彼は少年の顔の幼さから推定するにはあまり似合わない長身で、クソガキには不自然なぐらい静かな笑みを浮かべている。

「だから…天六で4時だ。コレは譲れない。早く行かないと並ぶハメになる、春駒はな…コンマ1も遅れたら死ぬぜ。」

(ざー)「ムリ…俺がどこに(ザザー)るかわかってんのかギアナ高地(ジジー)、だからオマエって(ザー)嫌いよ、ロゴス…」

ロゴスと呼ばれた少年は足音も立てずに闇から歩いてくる。

同時間。水色のスーツに万博アーチのライトで更に青い男が興奮して喋っている。

海岸公園の手摺りを力強く握って、男は対岸の摩天楼に夢を馳せる。

傷だらけの携帯を握る手はアンバランスに豪華な金のロレックスレプリカを巻いている。

「マキ、成功だ、あの女やっぱり思った通りだったよ。ああ、そうだ。俺が言った額をそっくり出すと言いやがったぜ?」

「…、……、」

「わかってる、YEAH!」

(ざザーー)

「あー?聞こえネーヨ。…違う、回線もだが。ちょっと待て、誰か大声で喋ってる、うるせえな…」

ロゴスは歩調を速めた。

海に向かって携帯に向かって興奮している変な水色の男がいる。

ネクタイは蛍光緑の水玉だ。ロゴスはそれを凝視している。

白い息を吐きながら足早に歩く。華姐は街路の時計を見た。予定の時間より少し早い。

まだ来ていなくてもいい、早く行きたい…

ゲリララジオ局が通路に引っかけていった、安物スピーカーから曲が流れている。

MY GOD TRIES FUCKIN'A BRISKET

MY GOD SPEAKS TO HIS SECURITY BLANKET

MY GOD …

ゆったりと揺れるコート、赤い花びら、真珠のピアス。とぎれとぎれの音楽。

華姐の視野はすぐに広くなった。

静かな海、海岸公園、

青い亡霊のアーチが目に飛び込んでくる。

公園の手摺りに寄りかかる水色のサンドロを見つけた。

無邪気に頬を染めて彼に駆け寄る。

「寂しがりの女だと思ったんだ。」

サンドロの甲高い声はすぐに華姐の耳に入った。

天然カールした髪が潮風に吹き上げられる。

「2時間後にフェスティバルゲートで待ってろマキ、金はこの後手に入れる。もうすぐだ。金を取ったらすぐに高飛びだ。スゴイだろ俺って。あの大女優華姐を落としたぜ!!」

男は大声で笑った。

「俺のこと愛してるって、ははははは」

興奮したサンドロは花束を持って突っ立っている華姐に気付かない。

「、あっ」

サンドロと華姐の目が合った。

記憶の中の、現実の中の、最悪のタイミング…

彼女の顔に表情はない。

サンドロはすぐに、すべてが台無しになったと思った。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

陶器のような肌、スキンベージュのコート、ベルベットレッドのバラ。

俺の女ではない。超豪華な「彼女」。

脳が引きつけを起こしたように、何度もリピート、リピート、リピート、頭に焼き付く。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

サンドロは何度もスクリーンで再生された「彼女」の動きに怯える。

彼の携帯は放り投げられた。また傷が付く。携帯なんか今どき誰も持っていないのに。

銃だ。銃は先に抜かなければ死んでしまう。サンドロの世界ではそうだった。

力一杯トリガーを引いた。

顔に一発、腹に一発、抱いた記憶中の温かい胸に、一発…

この女に何ができただろう?

華姐の顔は懐古のアーティストが使っていた"フィルム"が焼けたように穴が空いた。

サンドロは踵を返し、結果を見もしないで走り出した。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

「彼女」は少しうつむいて何かを言おうとした。

『あなた…誰だっていつかは必ず死んでしまうのよ。』

あの台詞はどの映画のものだっただろう?

スクリーンより現実味のない現実。

暗闇にいたロゴスの目には女が倒れる姿がスローモーションで記録される。

ゆっくりと、砕けるように。

ゆっくりと…

お似合いの赤いバラが砕けて、

赤い花弁が風に巻き上がる。

仰向けに倒れた華姐の体の周りに、大量に出血しているのが見える。

じわじわと、彼女の体を赤い輪が囲う。

彼女が、小さく、赤い血が大きく広がれば相対的に華姐は血の中に消え入るように小さくなる…

青く冷たい海、暗く。

寒い。

静かだ。

ここにいるのは関係ない二人だけになってしまった。

ロゴスはゆっくりと華姐に近づいた。

まだ生きている。

この女、何故逃げも動きもしないのだろう。

「…ネエさん、救急車呼ぼうか。」

波の音が時折大きくなる。海岸公園には二人以外誰もいない。

華姐は目だけをちらりと動かし、彼を見た。冷静だ。

赤く染まったドレスのポケットから何かを取り出す。

肺からエアが抜けあえぎ絞り出すように何か言おうとする。

「…ねえ坊や、お願い…さっきの…人…」

「…見た…?渡して…」

血まみれの、ブラックカード。表に彼女の指定サインが入っている。

「…」

ロゴスは傍らにしゃがんで女を見下ろしている。

「要るって言った…お…金…だから…」

彼は思わず眉をひそめた。

「…本気か。」

無事だった片目の瞳は誰よりも正気だ。恐ろしいほどに。

正気で自分を殺そうとした男に金を渡してくれと言っている。

カードを持つ華奢な手が失血のショックで震えていた。

彼女はようやく睫を伏せ、しかしバラのように安堵した微笑を浮かべた。

「お願い…してもい…い…かしら…」

そろそろ限界のようだ。

ワイアヘッドの少年は、血まみれの女の手を支え、カードを受け取った。

おかしな女。

慰めに、穏やかに言った。

「わかった。渡せばいいんだな…」

「大姐!!」

黒い何かが風のように走ってくる。

「大姐!!華姐!華姐!!」

黒いカーボンスーツの女は叫ぶ。妖炎の叫びが青い静けさを破る。華姐は反応しない。

倒れた主の横にすがり、何もすることができない飼い猫のようにおろおろするしかない。

主のピアスに付けたバイタルサインモニタの値は待機していた妖炎を取り乱させるのに十分だった。

…やはりついていくべきだった。

呼びかけるだけ、私には流れ出す血のように拡散し消えて行こうとする彼女をどうすることも出来ない。

冷静にならなければ…。

横でしゃがんでいた男から呑気そうな声がかかる。

「あんた、ネエさんのツレか?救急車呼んだぜ…っ!」

妖炎は言い終わる前に鋭く彼を睨み付け、いきなり胸ぐらを掴んだ。

予想しなかった速度と力。

「挽肉にしてやるッ!!」

彼は妖炎より大きかったが、簡単に持ち上げられてしまった。

女は猛獣のように牙をむいた。…本当に牙が生えている。

「待てっ、違う違う!オレは通りすがりだ!やったのはなんか彼氏?みたいなあ、水玉模様のっ、なあ、ネエさん?」

華姐は完全に意識が落ちている。

カーボンスーツの表面に盛り上がった妖炎の筋肉を素材繊維の縞模様が浮き彫りにする。

妖炎の腕に力が入る。繊維の格子状に開いた隙間から筋コントロール通電線が限界値までぎらぎらと明滅しはじめた。

めりめりと音を立てて。

「ぎゃあっ、オマエSPかッ!そ…れどころ…じゃないだろ、医者…」

少年は首が絞まり苦しそうに顔を歪める。

「救急車なんかじゃ間に合わない!!」

妖炎は泣きながら黒いデロリアンで疾走した。意識のない主を抱いて。

医療プラチナの上をつたう赤い血。

一つと、予備がもう一つ、二つの丸いタブレット型心臓にまとわりつく赤い生体組織。

鉱物で作られた固い部品が有機体の生命活動と融合する。

機械の動きは有機生体の命を繋ぎ、有機生体組織の機能が、機械を生かすのだ。

ゆらゆらと光を反射しながら。

機械の鼓動。

昔、誰かが言った。

『完全に正確な反復をさせるとね、機械は壊れてしまうんだ。同じはずの力が、何故か段々強力に強迫になっていってね…』

だから、揺らぎを持たせなければならないのだ、と。

繰り返し、繰り返し、打ち出すトーン。

「正確ゆえに最後には壊れてしまうとは皮肉なものね」

と彼女は答えた。

華姐の心臓は元々2つあった。一つは自身の心臓、一つは事前に芸能プロダクションが埋め込んだ人工心臓。

彼女を死なせないために莫大な「保険」がかけられていた。最重要商品だ。

バイタルサインをSPであり侍女である妖炎のサイバーとプロダクションのサーバーに直結し、常に監視していた。

妖炎以外にも通常、SPは見えないところに4人付いていて、妖炎が死亡したとしてもすぐ代わりが入ることになっている。

華姐の体が受けた強烈なショックを、繋がった5人が同じように電気信号で受けていた。

白いベッド、透明の管、無菌シートの光反射で歪む天井…

横たわる包帯と管だらけの変わり果てた華姐…。

扉の外では妖炎や関係者が医師の言葉を聞いていた。

「損傷は顔面の半分の銃創と、左の眼球破裂、モリブデンコート頭蓋の裂傷、骨折、至近距離ですがショックはよく吸収していました。しかし脳の一部に圧迫障害。機能補助チップで完治するレベルです。胸部の銃弾は肺と本物の心臓の損傷、普通ならこれで即死です。他は腹部への銃弾による骨折と肝臓の損傷です。あの失血でよく助かったものだ…。入室は5分以内で許可します、今はまだ眠っています。無菌シートには触れないように。」

妖炎は黙って頷いた。彼女の服は主の血で染まっていた。だが気にする風でもない。

ただ、感覚の繋がった華姐のバイタルサイン…痛みが伝ってくることが、彼女の後悔を一層深いものにしていた。

感覚の痛みなど訓練された彼女にとっては何の妨げにもならない。

だが、妖炎の弱みは唯一、主である華姐だった。

2時間前、デロリアンでERに直接搬入した。

シートから血をこぼしながら、華姐を抱き上げた。

まとわりついていたバラの花弁がはらはらとこぼれる。

残り4人の同じく黒いカーボンスーツのSPが4台の車から降り、無言で彼女の周りを囲み、同行した。

妖炎は白い通路を手術台まで、主を抱えて泣きながら歩いた。

ベッドの周りには見舞いの花が既にむせかえるほど贈られていた。

花の中で眠る血の滲んだ包帯だらけの華姐は逆に痛々しさが引き立ってしまう、そのことに気付けるセンスを持つものはなかなか少ない。

誰もが、うまく愛情を伝えることを、どうやって彼女を支えればよいのか、悩む。

どんな人々の愛情も、彼女に触れることが出来ない。

頭部の半分は包帯で覆われ、管とモニタ配線が、まるで彼女の動力コンセントのように繋がっている。

その中で、ようやく華姐はうっすらと眼を開けた。

水面に上がる意識。

繋がったすべてが再び動力を得る。

蘇る力、5人のSPと病室のモニタが力を得たのを感じた。

周りには、スポンサーと彼女の友人、プロダクションの関係者、すべて彼女を愛する者達が集まって、その顔を見下ろしている。

30から70代ぐらいまでの男性達、正体の分からない覆面の者、権力を持つ女性達。様々だ。

「華姐…、いい加減誰かに落ち着けばいいのに。」

「華姐…、一人では辛いだろう。私ではダメかい?」

「華姐…、あまり自虐的になってはいけない。」

「華姐…、。」

こんな状況でも、あやすように冗談交じりで語りかけることの出来る者達だ。

華姐は少しはにかんだ。

言葉と心。

わかっている、と。

人に温度と幸福感を与える才能のある女、微笑みと愛情を返す女優、華姐。

しかし、彼女が本当に愛情を理解できているかどうかは疑問だった。

透明の無菌シートは誰に対しても絶望的な永久の拒絶に思えた。

すべてを受け入れる者は、すべてを拒絶する者と同じ…。

妖炎は病室に入らなかった。ドアの前で、華姐の意識回復を感じながら立っていた。

いつもの護衛のように。

彼女の部下であり運命共同体である4人のSPが同じようにビルに配置されている。配備は更に増やされ、病院を取り囲んでいた。

どんな護衛でも入り込んでくるたくましい粘着質記者も今度ばかりは病院にすら入ることが出来ず、舌打ちして待っている。

病室前の通路の奥で、ぼそぼそ話す声が聞こえる。

「8時だったな確か。水色のスーツで緑の水玉模様ネクタイの男だった。黒髪の、ヒスパニック系の色と顔立ち。いきなり撃ちやがったぜ」

確か、という言い方をした、ロゴスの話を警官がメモしている。

彼はあの後SPたちに銃を突きつけられつつ一緒に連れてこられたのだ。もうずっと付き合わされていた。

隣には医師が居て、状態を説明していた。

警官は職務的にロゴスに疑いの目を向けている。

首に下げられた使い込んだアルミ製のエンジニアゴーグル。瞳の色は両目ともダークオレンジ。片目の光反射が微妙におかしいのは何故か、警官にはそこまでの知識はない。髪は天然ではなく脱色だろう。年齢は15、6ぐらいだが不詳。肌の色は青白いが、頭蓋骨格からしてアジア系だ。

「何か君が無実だと言える証拠はあるか?無ければとりあえず拘束ということになる。」

厄介なことになった。明日の春駒寿司はナシになりそうな予感…などという表情は微塵も出さない。

「あー、それなら…」

妖炎はその様子をじっと見つめていた。

医師も含めて3人を彼女は警戒している。

頭からつま先までじっと眺める。SPなら誰でも同じ行動を取る、相手を全身スキャンにかけているのだ。

警官はただのオッサン。肝臓がヤバそうだ。医師は足に安物のボルトとチップが入っていた。以前事故でもしたのだろう。

白髪・黒コートの怪しい少年は…、足も腕もボルトだらけ、骨の一本は丸々チタンで、肉には安物の弾丸の欠片がたくさん入っている。まあここまでは頭の悪いクソガキなら普通のレベルだ。しかし脊髄の半分、頭蓋が違う物質。片目は高解像度サイバー義眼、両視神経にサイバーコードが埋め込まれ、指先まで複雑に絡み合っている。警官の簡易スキャナーでは検出できない有機素材。

あの義眼、普通のガキに買えるルートではない。

彼女は興味を示し、スキャンレベルを上げて徹底的にスキャンに熱中した。

彼のコートのポケットに何かを発見した。

ブラックキャッシュカード…署名インクで書かれた華姐の「出力許可」暗号サインがはっきり見て取れる。

SPの一人が無言で妖炎の側にやってきた。代わりに妖炎はドアの前から動く。

血が沸騰しそうになるのを押さえながらゆっくりと。

黒い手袋が警官の肩を叩いた。

「おじさん、彼は私たちの友人よ。疑わなくていい。」

妖炎は低い声で言った。

警官は少し驚いている。

「え、しかし君…?彼の話では」

妖炎の瞳が炎のように赤くぎらついた。

彼女は認証カードを見せた。

「私は妖炎、華姐の専属セキュリティポリスよ。国際人権警護ライセンスを持っている。私の言葉は生涯記録モニタされている。だから偽りはない。」

これは脅しだ。

中年警官はべったり血糊の付いてしまったカードホルダーを見て、一歩引いた。

人権をほぼ破棄し、生涯、契約したあらゆる主人を護るためだけ尽くし、強力な身体能力を電気スーツで縛られた、人以上人以下の人間。普通SPは主人以外の人間と話すことはあまりなく、このライセンスを見られる人間もほとんどいない。善良なる人間に攻撃を加えることはないが、恐怖を与えるには十分の黒騎士のカード…。

「失礼、そういうことなら…この人物の件はお任せします」

警官は自分の娘ぐらいの小娘・妖炎に深く頭を下げて早々に去った。

医師も、彼女の一瞥でその場を離れた。

残るはこのクソガキ…

黙ってやりとりを見ていたロゴスは気まずそうに立っている。妖炎は彼に眼も向けずに話しかけた。

「…あんた、左のポケットに入っているモノは何?」

「…え」

ロゴスは勢いよく壁に押さえつけられた。

ガツ、という音がして目の前を黒い爪が瞬時に伸び壁に突き刺ささった。爪は檻のように彼の頭を囲った。

「ポケットに入ってる華姐のキャッシュカードは何だって聞いてるんだよ!ぶっ殺されたいか!!」

「げっ!ま、待て!それはだな」

妖炎は空いている片手をロゴスのコートのポケットに突っ込み、カードを取り出した。

「簡潔に言え。私は気が短い」

ロゴスは背筋に冷い汗を感じた。ちょっとでもこの爪に触れれば骨まで切れてしまうだろう、身動きすら出来ない。

「それはあの華姐が、撃った男に渡してくれって、オレに頼んだものだ。」

「どこの誰が自分を撃った男に金をくれてやれって言うんだよ?あ?」

彼は途方に暮れた。信じる訳ないとは思ったが本当なんだからどうすればいい…

半ば諦めた声で彼は言った。

「…嘘だと思うなら本人に聞けばいい。それでも不満ならオレのかわいいピンク色の脳細胞とファックだ、黒猫ネーちゃん。19時52分25秒の視覚が予備電脳に記録されてる。」

少年の片目にちらりと光が走った。

コイツ、私を既にスキャンしているようだ。装備は同等か。

妖炎は黒い瞳でじっと彼を見つめた。声と体躯の発達平均値と顔の年齢が一致しない。見た目は16ぐらいだが、微妙に冷静な言動からするとそこまでガキだとは思えない。

華姐の病室にコイツを入れるわけにはいかない。クラックも普通のガキなら負けないが、正体不明の脳死野郎にサイバーを直リンクするのはリスクが高すぎる。

少年は妖炎の様子を見てさらっと言った。

「…心配か?なら埋め込み脳のパーティションを分割しろ。焼けたってちょっとアホになるか半身が動かなくなる程度だ。」

妖炎は口元だけをニヤリと引きつらせた。異様に発達した犬歯が覗く。

「…再生しろ。」

自分のコードを差し出す。ロゴスはコードをゴーグルに繋いだ。

視覚の左下に19:51:00の映像が映し出される。視野はクリアだ。青い光、色温度分析値が表示されている。

「寂しがりの女だと思ったんだ。」

目の前でサンデーなんとかと聞いたあの下品な男が居た。いつもながらとんでもなく趣味の悪い服装だ。

「2時間後にフェスティバルゲートで待ってろマキ、金はこの後手に入れる。もうすぐだ。金を取ったらすぐに高飛びだ。スゴイだろ俺って。あの大女優華姐を落としたぜ!!」

サンデー?は大声で笑った。

「俺のこと愛してるって、ははははは」

横から華姐がやってきた。

「、あっ」

男は小さく声を上げた。沈黙。

華姐は少しうつむき加減で、何か言おうとする仕草。普段の華姐の癖だ。

男は突然銃を抜いて3発、発射した。衝撃。

視覚は倒れた華姐の元に。

そこに、いつもなら私が居るはずだった。主が倒れているはずなど無かった…

しゃがみ込んで悲惨な華姐を覗き込む。

「…ネエさん、救急車呼ぼうか。」

これは少年の声。

華姐は目だけをちらりと動かし、彼を見る。

赤く染まったドレスのポケットから何かを取り出す。

肺からエアが抜けあえぎ絞り出すように何か言おうとする。

「…ねえ坊や、お願い…さっきの…人…」

「…見た…?渡して…」

血まみれの、ブラックカード。表に彼女の指定サインが入っている。

「要るって言った…お…金…だから…」

「…本気か。」

カードを持つ華奢な手を凝視している。

彼女は睫を伏せ、微笑を浮かべた。

「お願い…してもい…い…かしら…」

血まみれの女の手を支え、カードを受け取る。

「わかった。渡せばいいんだな…」

あの時関知した絶望的な痛覚が蘇る。

妖炎は涙を流していた。痛いのではない。悲しい…悔しい…。

ロゴスはそれを無表情で見ている。

「そんなに契約者に肩入れしてSPが務まるのか?」

「うるさい、オマエに何がわかる。」

契約者がNOと言えば、ついていけないのが仕事だった。我々は主の生活を妨げてはならない。それが理由で契約者が死んだとしても、契約上はそれで正しい。

「私は死ぬまで華姐の騎士。他の誰にもつかない。大姐が死ねば私も死ぬ。」

声にならない声がサイバーを伝って彼の脳に届いた。

同時に恐ろしいほどの精神的負荷がかかる。鉛のように重い、重症の強迫神経症だ。

「…」

ロゴスは危うく感情が融合しそうになるのを遮断した。触れればこっちは自殺しかねない。

しかし少し興味がある。ちらっと彼女の電脳に侵入する。

不鮮明な画像。電脳ではない肉エリア映像のようだが、華姐、という鍵で繋がる記憶が何度も呼び出された跡があり電脳キャッシュにコピーされていた。

窓の外に海が見える。ハゲかけた壁、窓にはガラスなど残っていない。ぼろぼろの家具。

ここに居着いていたようだ。海沿いの廃墟群。スラム。

女が見える。背が高い。と言うより視点が低い。妖炎の幼女の頃だろうか。

「ごめんね妖美」

女は彼女を抱きしめて必死に謝っていた。若い女。15、6。母ではないようだ。

後ろの方から騒がしい声が聞こえてくる。男達の笑い声だった。

女が走って行って怒鳴りつける「あんたまた私の財布から金を抜いたね!?何考えてるの!妖美に何を食べさせればいいのよ、帰ってよあんた達も!!」

泥酔した若い男が笑っている。顔が似ている、兄弟か。

「うるさいなあ知るかよ!金が欲しけりゃ体でも売ればいいじゃねえか、オレの分も稼いでくれよな」

「バカッ、あんたまたヤクやってるの?もうお前なんか弟じゃないわっ、痩せた妹を見て何も思わないの?私と妹がやっと稼いだ分を盗んでいくなんて!!」

女はヒステリックに泣き出した。

他の男達が金をちらちらさせている。「ネーちゃん、金が欲しいんだろ、こっちこいよ」

泥酔した弟はヘラヘラ笑っている。「こいつらねえちゃんを抱きたいんだって、いいだろ?金くれるっていうし」

女はジリッ、と後退した。男達があっという間に腕を掴み、押し倒し、服を引きむしった。

「いやあ!!やめて、やめてー!!」

「うわーん」

記憶の本人が泣き出す。視界が歪む。兄までが姉になにか怖いことをしようとしている。姉の叫び声、怖い、恐ろしい…

映像がとぎれとぎれになり、音が聞こえなくなる。恐怖のあまり記憶がおかしくなっている。

次に見えたのは自分の腕を男達に掴まれている映像。

血にまみれた姉が私に向かって叫んでいる。逃げて、逃げてと、ガラス瓶で殴られた男が頭から血まみれだ、真っ赤な姉が私を突き飛ばす、姉がまた男達に呑み込まれていった。

ぼやけた視界、誰かに話す声。記憶がめちゃくちゃに交錯している。これは妖炎の悪夢か?

あたしはかいだんからおちたけどこわくてそのままはしった、だれかおねえちゃんをたすけて、おねがい、おねえちゃん、おねえちゃん、こわいかえってきて、おねえちゃん…

…お願い、誰か助けて…

日の落ちた繁華街のゴミ箱の側。膝を抱えている手が見えた。男に掴まれたところが痣になっている。

緊張した筋肉、胃が突き上げられるような不安感、小刻みに震える歯の音がガチガチと頭に反響している。

「ねえ、小妹?どうしたのこんなところで」

誰かの声に驚いてビクッと顔を上げた。

女が立っていた。赤い、見たこともない綺麗なドレス。黒い光沢のスーツを着た男が何人か周りにいる。その黒いのが怖くて視界が狭窄する。

「…迷子になったの?名前は?おうちは…?」

ふわ、っと視界が高くなった。

びっくりするほどいい香り、柔らかい体…

女に抱き上げられていた。女は彼女の顔を覗き込んでにっこり笑った。

するすると衣擦れする柔らかいドレス

小首を傾げる、ふわふわと揺れる髪

子供の笑顔のような唇に、少し寂しそうな瞳…?

なんて綺麗な人。

屋台の電華で見たことのある人。有名な人。この人知ってる。

「華姐」。

キャッシュはそこで終わっていた。

ロゴスはそっと引き下がった。ピンを抜いてコードを返す。

妖炎はギロ、っと彼を睨み付けた。

「…オマエ、あたしの記憶読んだだろう」

思いっきりバレた。以外に鋭い。

「…少し。怒るなよ、代わりにシナプスリンクドライバ、バグフィクスした。特異点連続痙攣症は消えるハズだ。」

「余計なことするな。」

妖炎は無表情に戻っている。

「オマエ何。私のを見たなら正直に言えよ、名前は?」

「オレはロゴスと呼ばれてる。中身はスキャンしただろ、熱心に。ただのクラッカーだ。情報売人。」

少し溜息をつく。「で、疑惑も晴れただろ。」

「ロゴス…LOGOS…?暗号破りごときが…ふざけてるな。怪しいがオマエじゃないことはわかった。さっさと帰れ、カードは大姐に返しておく。」

「カードはオレに返せ。それはあのチンドン野郎に渡す。」

「舐めてんのか?ミンチにするぞ?」

「バカ、わかんねーのか。華姐がそう言ったんだぞ。オレは彼女に約束した、あの野郎にカードを渡すってな。オレも彼女のファンだし。約束は守る」

ロゴスはニカッと笑った。

妖炎は呆気にとられた。

華姐はまた厄介なことを…

彼女はいつもそうだった。私を拾ったときのように、余計なことばかりする。しかし、私はあの不幸な大姐が何でもしたいようにできるよう、彼女を護ってきた。

妖炎はかぎ爪を収納し、カードをしぶしぶロゴスに渡した。

「オマエを全面的に信用したわけじゃない。大姐と話をする。オマエのことは監視する。」

「…いいだろう、ついてこい。オマエらじゃどのみちあいつは探し出せない。」

ロゴスの瞳の縁に、ついっと虹色の光が弧を描いた。

ニュースは、静かに、渦を巻きながら電華を伝わっていた。

「…の女優、『華姐』が昨夜、銃で撃たれ、意識不明の重体…」

行き来する人々が、何気なくビルの巨大電子掲示板を見、スクリーンに映る華姐を見上げていた。

しかし、誰もそのことを仲間内で噂する者はいない。

所詮、ショウビジネスのゴシップ記事である。我々に与えられた彼女は造花…

『あなた…誰でもいつかは必ず死んでしまうのよ』

いつか必ず。

誰もがわかっている事だった。

ああそうか、あの人が、撃たれたんだ…

誰も、心に留めど痛める者はいない。

芸能プロダクションの記者会見が開かれ、どうでも良いことをペラペラと喋っている。

アクシデントを深刻に話す姿も、すべてはパフォーマンスだ。

記者達もそれをわかっている。

そして、視聴者達もそれをわかっている。

しかしその嘘の奥に造花ではない人々が見えてしまう。

だから観るのを止められないのだ。

華が散るまでの、ほんの一瞬の、永劫の、煌めきを。

華姐本人とは関係なく、映画の封切りは派手に宣伝されている。

『STAYBACK, I KILL YOU』

ニュースに混ざって流れる新作映画の広告が、まるで彼女の言葉のように見えた。

彼女は撃った犯人を恨んでいるだろうか…。

みんながそうぼんやりと考えていた。

感傷と恨みと妬み、そして一握りの祈りが人々を支配する都市。

妖炎は病室に入らず、観察窓から華姐を見ていた。

少年や少女が周りに集まっていた。

どこの出身かも本人達すら知らない、薄汚い子供たち。

窓を一所懸命覗き込もうとするが背が足りない。

妖炎はその子を抱き上げて窓を見せる…。

SP達やプロダクション関係者は子供たちが集まるのを黙認している。

彼らは華姐の"友達"だからだ。

「ねえ、妖炎。大姐、死んじゃうの?」

「華姐…。なあ妖炎、やったヤツは見つかったのか?」

「…大姐が居なくなったら、オレら…」

「クソ、あのサンデー野郎、ぶち殺そうぜ、妖炎」

少女の一人がつぶやいた。

「ねえ妖炎、私たちどうしたらいい…」

小さな頭達は急にうなだれて元気を無くす。

妖炎はボソッと言う。

「…これぐらいじゃ死なないよ。余計なこと考えるな。」

座り込んでいる小汚いガキ共の頭をぐりぐり撫で回した。

この子らは、妖炎と同じく華姐が好きでたまらない。

華姐もこの子達を可愛がっていた。

友達のように、親子のように、仲が良かった。

…華姐は愛して欲しい者を誰も拒まなかった。

路地裏にいるようなギャングの少年でも。

あの怪しすぎるサンドロでさえ。

にこにこ笑って、

『ねえ小妹、小弟、こっちに来て、私のそばに座って…。』

そう言われるのを、みんな何度でも待っているんだ。

彼女が自分たちを欲してくれる言葉が嬉しくてたまらなかった。

彼女の周りを囲って座り、離れようとしない。楽しかった。彼女がどんな家で育ってきたのかは知らない、けれど、綺麗なドレスを着て、お構いなしにガキ共と屋台のジャンクフードを食べるような人。

妖炎も、かつて同じようにちょこちょこと彼女に着いて回った。

言いたい言葉をかけることはできなかったが、代わりに誰よりも彼女のドレスを掴んで離さなかった。

ほとんど喋らず大人達を困惑させた私だが、言葉が出ない代わりに私は彼女のドレスをずっと掴んでいた。

華姐はそんな私を面白がって、少女のようなあどけない瞳でいつも覗き込んだ。

私の手を握って「私も大好きよ、小妹…」

成人した今でも、私はその同じ言葉を、彼女に返すことができた試しはない。

私は今でも華姐を見上げてドレスの裾を掴み言葉を失う子供と同じ…。

抱き拾われたあの日からずっと。

ずっと壁にもたれかかっていたロゴスが気配を発して一言つぶやく。

「妖炎、まだ意識は回復してないと発表させろ。意識が戻ったとわかったらサンドロは姿を変えて高飛びする。」

妖炎は振り返りロゴスの顔を一瞥した。

「…オマエみたいにか。」

ロゴスは表情一つ変えず答えない。

妖炎にはわかっていた。この男の顔が何度も作り変えられた造形物であることを。ろくでもない経歴の持ち主には違いなかった。

妖炎は無視して続ける「アイツを探し出せると言ったな。何者かもわかるか?」

ロゴスのコードが一瞬ちかちかと光る。ウエブに繋いでいるようだ。

「運がいいな。戸籍情報が残ってる。ニシザキ・アレッサンドロ。本名はニシザキ・ホセ・マリア・アレッサンドロ。DNA戸籍登録ナンバー09914388JH。ヒスパニックのクオーター。両親を保険金詐欺でぶっ殺し逃走した後、末端の小さなギャングの女につながりを持ってる詐欺師だ。今回はそいつらが逃走を手配するだろう。あいつ一人じゃない、逃げられればオマエらでも捕まえられない。」

妖炎はそう言われてムッとした。

「オマエなら捕まえられるって言うのか?"我々"をそこまでナメるとは、自信があるのだな」

ロゴスはギラギラと光る妖炎らの肉質の瞳に無反応に見据えている。

見た目は同じ様なクソガキだったが、絶対的な何かの壁が彼らとロゴスの間にあった。

「…オレの約束は華姐の希望通りサンドロにカードを渡すだけだ。後は知らない。」

ダウンライトの逆光の中で、銀ファイバーの髪とダークオレンジのガラス玉の瞳は"ブルードール"のように冷たく光る。

「ん?」

ロゴスはふと下を見た。何かがコートの袖を引っ張っている。

5歳ぐらいの幼女が居る。彼のコートの端を掴んでじっと彼を見上げている。

ロゴスもきょとんとして幼女を見る。

「…」

ロゴスは妖炎を振り返った。

「これ、オマエの子?」

「…死ネよ!!」

妖炎がロゴスの頭を音が出るほど思いっきり殴る。

「イテえッ!殴らなくてもいいだろ!?」

妖炎はしゃがんで幼女の手をそっと掴んだ。

「蓮、どうしたの?青小姐はどうした、ダメじゃない離れちゃ。大姐か?マーは今眠ってるよ」

蓮、と呼ばれた幼女はぐっと口を結んでいる。硬直した不自然な表情。

ロゴスがそれを聞いて驚愕する。

「マー?母親?華姐か?マジかよ!華姐にガキがいたのかっ!!」

「うるせえよバカヤロウ、知らなかったのか」

いちご柄のワンピースを着た幼い華。愛らしい顔立ちは華姐に確かに似ていた。

蓮は少年の顔を見上げて覗き込んでいた。小さな華は何を思って見ているのかはわからない。

ロゴスもそんな幼女を不思議にも思わず、無機物のようなオレンジの瞳が無表情にじっと幼女を見下ろす。

「蓮…?蓮… あ、妖炎ゴメン…目を離した隙に」

細い華奢な声が呼んでいるのが聞こえる。

妖炎と同じカーボンスーツの、少し小柄な女が音も立てずに近寄ってきた。黒いスーツに黒い髪、瞳だけが青だ。「青の小姐」と呼ばれている。

妖炎と青小姐はこの状況に目を合わせた。

青小姐は黒髪を掻き上げた。

「?どうしたっての…この人は…?」

蓮が見知らぬ少年の顔をじっと見上げている。

青小姐と振り返ったロゴスの目が合う。

「…」

妖炎はボソッとロゴスに言った。

「ヘンだな…この子、私以外になつくことなんてないんだ」なんでオマエなんかに…

「ふーん?母親にもか」

…蓮はまったく口を利かず、妖炎以外には決してなつこうとしない子だった。

母親であるはずの、あの優しい華姐にさえ、何故か彼女は顔を覗き込むような事はしなかった。妖炎だけは何故か蓮が物心ついた頃になつかれ、世話を任されていた。護衛の勤務交替時間以外、妖炎の部下で大人しい"青の小姐"に任せてあったが、それでも妖炎にしか触らせようとしない。他の者が触れば火が着いたように泣き出して手がつけられなくなる、気難しい子だった。

妖炎は答えを複雑そうな表情で返した。

「…ああ。」

ロゴスがその場を歩き出す。

スルリとナイロン地の衣擦れの音を残し

通りざまに、蓮の頭をポンポン、と撫でた。

そのまま通り過ぎる。

クソガキどもが驚いたように目をあわせる「…蓮が泣かない…」

蓮にとって何の魅力がこの機械の様な情報売人にあるというのだろう。

蓮や妖炎たちは彼を目で追っている。ロゴスはそのまま廊下を出口に向かう。

妖炎が気付いたように

「おいロゴス!どこへ…」

「決まってるだろ、サンドロに会いに」

「まっ待てよ、勝手なことするな。大姐に話を聞くまでは…」

妖炎は、ち、と舌打ちした

「青小姐、場を頼む。私はロゴスとサンドロを追う」

青小姐は「妖炎」から状況データをダウンロードし、小さく頭を下げた。

非常口と書かれたグリーンライトをくぐり、暗い階段へと呑み込まれていくロゴスと妖炎を、子供たちと蓮がじっと見送っていた。

青小姐は蓮の側にしゃがみ、つぶやいた。

「不思議な人…怖くなかったのね、蓮は。」

高層ビルの赤い高度警告ランプが点滅している。

頻繁に旅客機の飛び立つ音が聞こえる。

逃げ道はすぐそこにある。はずだ。

ちょっと乗って、それでもう済むはずだ。

なのに何をグズグズしている。

役にも立たない乾ききった年寄り売女が、カツカツとデリカシーの欠片もなくヒール鳴らして俺をイライラさせる。

サンドロは、震える手を誤魔化すように頭に添え、崩れた髪をなでつける。

震えている。

「マキ…マキ?どこだ。」

安物の口紅を引いた女が、コップに入った水と赤い6角形の薬を持ってくる。

ベッドで頭を抱えている男の隣にそっと座った。

「ねえ。そんなに怯えなくても大丈夫よ、だって頭にも心臓にも当てたんでしょ」

サンドロはずっとニュースを付けっぱなしにしていた。

「確かに頭半分が吹っ飛んだ。なのに、何で死んでないんだよ!」

女はこの怯えきった男に無理矢理にでも薬を飲ませようとした。面倒な男は眠らせておくに限る、彼女が今までの経験で得た事だ。

母親に飲まされるように、サンドロは女の手を握ってコップの水を飲んだ。

「サンドロ、だったら大丈夫だよ、もうあの女は口だって利けやしないんじゃない。」

「チケットはどうなったんだ、お前、失敗しても逃げ道は用意するって約束だったじゃないか」

マキは溜息をついて備え付けの端末機を開いた。

年代物液晶の、半分死にかかっているボロボロの画面。航空会社のオペレーターを呼び出す。

マキは安物のマリファナに火をつけると、IDカードをサンドロに見せた。

「ほら偽造IDカードはもう作ってあるわ。でもすぐに飛び出るのはマズイよ、あのSPたちはあたしらみたいなモンでも、香港ギャングでも、平気でくびり殺しちゃうって。黙殺だよ、世の中間違ってるヨネー?ヤクザよりタチが悪いよ」

「み、見捨てるつもりか?」

「そんなこと、言って無いじゃない。…好きにすればいいわ、自分の手でチケットを取って。私が信用できないのなら。」

臆病な男。男はどれも子供と同じ。

波打つ水面に窓の外の警告灯が反射し、海面は血の海のように見えた。

薄汚い待合室にあるボロい電華は華姐の名作シーンを何度も狂ったようにリピートしていた。

『私を置いていかないで、お願い…』

華姐が画面の中で泣いている。

その言葉は今の妖炎の心を代弁していた。

妖炎の目は職業上、もはや涙を流すことはできない。

華姐、彼女は一体、何億人の感情を代弁してきたのだろう。

ノイズが何度も彼女を引き裂こうとする。

何回目のリピートかもう分からない。

妖炎は溜息をついた。

ロゴスがモグリの医者の元に入ってからもう3時間ぐらい経っていた。

妖炎は華姐の元を出てからロゴスを散々問いつめた。

「もお、何度も同じ事訊くなよ、渡すったら渡す」

「こんなのどうかしてる!アイツは大姐を裏切ったんだ!どうせサンドロは二度と大姐の前には現れない、大姐に辛い思いをさせるヤツはぶっ殺す!」

「落ち着け妖炎」

「オマエどっちの味方だ!?待て殺してでも行かせない」

ロゴスは頬を紅潮させ静まらない妖炎の顎を捕らえ、顔を近づけて囁く。

「オマエ…わかってるハズだ。華姐はまだサンドロを愛してるかもしれない。殺るのは簡単だが彼女が泣いたらオマエのせいだ、それでもお前は後悔しないのか?」

「…」

不安と焦燥感が喉元を突き上げる。

「ロゴス…オマエはあまりアホじゃないんだな」力無く言葉を返した。

「なに!?」今度はロゴスが憤慨した。

妖炎は頭を垂れた。

「私は大姐のような女ではない…私は大姐じゃない…ずっと一緒にいるのに、まだ彼女の気持ちがわからない……」

じゃあ、面白いことをしよう…

ロゴスは妖炎をなだめるように言った。

オレ達が華姐の代わりをするんだ。

簡単だ、ただ、華姐が起きあがるまでだ。

オレ達が知ってる彼女を、サンドロに見せよう。

ヤツを監視し、目の前にしてオレ達は手を出さない、

いいな?妖炎黒龍…どこまで手を出さず我慢できるか、できないか、オレとお遊びだ。

もしも手をだしたら、オマエの大事な華姐はもしかしたら自殺するかもな…

そこまで言うと、ロゴスはその口角を耳まで裂けそうな程つり上げて笑った。

あれは少年などではない。

…ゆらめく黒いコートは不吉の影…

醒めない悪夢のように連続再生されるワンシーンから妖炎はようやく目を離した。

 サンドロは薬のせいでピンクと緑がかわるがわる視界をちらつくことよりも、華姐の追っ手の方が気にかかっていた。

鎮静剤の効果を上回るパニック状態が彼を襲う。

「くそ!!俺は一人でも生き延びてみせるぞ!」

いきなり立ち上がりヒステリックに叫ぶ。

マキは驚いてくわえていた鎮静剤で役に立たないサンドロのナニから突き飛ばされて転ぶ。

口元を拭きながらマキが叫ぶ「ダメだよサンドロ!」

サンドロはドアに向かって突進した。

ドアを乱暴に開け、歯を食いしばって早足で歩き出す。

踏みつけられた古いカーペットがダウンライトで光っている。

前方の角をまがってくるホテルマンが一人。

サンドロはとっさに我に帰り冷や汗をかきながらネクタイを直す。

訓練された、詐欺師の人懐っこい営業用スマイルの準備だ。

「こんばんわ、いらっしゃいませ」

ホテルマンはルームサービスを運びながらサンドロに挨拶した。

「こん…」

サンドロも職業上用意した笑顔で…

途中で心臓が盛り上がるように激しく一度、波打つのを感じた。

ネクタイにかかった手が震える。

すれ違ったホテルマンは、顔だけが華姐であった。

転んだまま床で泣いていたマキのところに、サンドロは戻ってきた。

ドアをあけるサンドロを、通路の監視カメラの、まるで瞳のようなレンズがその姿を追う。

マキが彼を見上げる。「サンド…」

サンドロはマキを通り過ぎオペレーションシステムの前に座る。

苛つきながら航空会社のオペレーターを呼び出す。

急げ、ここはもう死の影が迫っている。

彼の勘がそう伝えていた。

「毎度御利用ありがとうございます、フライトの御予約でしょうか?」

サンドロは思わず舌を噛みそうになった。

「っぎゃあああああ!」

「きゃぁっ!どうしたのよ!?」

サンドロは後ろにいたマキに飛びついた。

「画面っ画面!!華姐が!!幽霊だああ!」

よれよれの液晶画面の中には華姐の顔を使ったオペレーターが対応を待っていた。

「んあ〜?オペレーターに肖像起用でもしてるんじゃないの?よくあることじゃな…」

「そんなワケあるか!さっき見た時は違ったじゃないか!それに…それに…」

サンドロは息が詰まりそうになりながら必死喋る。

「さっき通り過ぎたホテルマン、ありゃ華姐だ!」

マキは哀れな者を見る目で彼を見る。

「信じてくれ!本当だって、顔だけが…」

「ちょっと、飲ませすぎたかしら…」

ゆっくりと安ホテルの赤い絨毯を歩く黒い制服のホテルマン。

穏やかな笑みをこぼしながらゆっくり。

廊下の角を曲がり…艶やかな女の唇で男の声で大爆笑した。

「まったく気分が悪いな」

妖炎はその様を見ていて歯を剥いた。

これがロゴスのお遊びらしい。顔を華姐に整形し、サンドロの前に幻影のように現れる。

華姐はみんなに囲まれて眠っていた。

妖炎やロゴス、蓮、青の小姐たち。

夢を見ていた。

あたり一面ガラクタとコンクリートが散らばっている。

黒い色の川を挟んで向こう側には黒い煙を吐く工場が見えている。

夕日が幼い華姐の頬を照らしていた。

白いボロボロの服。弟は使えそうな車のバッテリーを探していた。

弟も白いボロボロの服。

父母はジャンク品を売りに出かけている。

やがて白いバンが戻ってくる、父母だ。

母さんは安物のコカインで「まだ、もう少し」とうわごとを言って幸せそうに笑っている。

「おとうさん、たべものは?」

華姐は父に尋ねた。朝からまだ何も食べさせてもらっていない。

父は疎ましげに、彼女と顔を合わそうとしなかった。

「とうさん、ぼくまたバッテリー見つけたよ」

父はそれを取り上げると積荷に積んだ。

「ねえ、おとうさん」

華姐は弟が腹を空かせてフラフラなのを知っていた。早く、お金がまだコカインに消えないうちに少し貰わなければならない。

父は突然バンのドアを閉じた。

「おとうさん!」

急発進する。

「とうさん!!おいていかないで!!」弟は追いかけた。

バンは急ブレーキを踏むと、バックした。

弟はそのまま轢かれた。

「!」

弟は叫び声すらも上げなかった。

華姐は弟に駆け寄る、声も出ない、恐ろしさに震える手で弟を触った。

屑コンクリートから生えた鉄筋が、弟の胸を貫いていた。

即死だった。

彼女の父母のように無感情であればよかったのに。

弟を抱きしめてずっとずっと泣いた。

永遠に泣き続けるかと思うと意識は水面を上がるように目覚めた。

周りにたくさんの子供たちが座っていた。

華姐は包帯だらけの顔で微笑んだ。

「華姐、笑ってるの?」妖炎は顔を覗き込む。

「悪夢でも見ていたんだろう?姐さん」

ロゴスは整形した顔を隠すために黒いゴーグルをかけて、その半透明のグラスから光る眼で微笑んでいた。

悪夢だって?笑っているのに…妖炎は未だ解けぬ警戒心をロゴスに向ける。

「小弟…」

華姐は悪夢の事を、当たりよ、と言う風にロゴスに向かってそう言った。

彼女は周りにいるものを素性がわからなくともそのように誰をもかわいがった。

「オレのこと覚えててくれたか」

華姐は蓮の花のような掌を広げて、ロゴスを触り、微笑んだ。

「カードなら心配ない、必ず渡す。約束するよ」ロゴスは誓った。

華姐は嬉しそうに微笑み、何も言わず、そのまま、また静かに目を閉じて眠りに落ちた。

妖炎とロゴスは顔を見合わせた。

華姐の意思は、カードを渡せ、だったからだ。

妖炎は唇を噛んだ。

サンドロは焦っていた。

自分の頭がおかしくなったのか?それとも華姐が生きていてストーキングしているのかわからない。

「とにかく逃げる」

バレたら逃げる、それが俺。

急いで飛行機のチケットを手配しなければいけない。

「毎度御利用ありがとうございます、フライトのご予約でしょうか?」

今度のオペレーターは普通の顔だった。余計に訳がわからない。

サンドロは混乱する頭で平静をなんとか保ちながら手元のキーを叩いた。

「なんなのよ、今度は平気そうな顔して」マキは真剣なサンドロの横顔を見て不気味そうにつぶやいた。

明くる日の夕方、サンドロはホテルから出てカートを引いていた。

助ける約束のはずだったヤクザとの交渉に手間取ってマキも含めて揉めたからだ。

サンドロは一人だった。そしてブラジルに逃げる。

大きな赤い観覧車が見えるショッピングモールの入り口では子供たちが無邪気に走り回っていた。おおきなウサギの着ぐるみがキャンディを配っている。自分より知能の低い子供を安心しながらサンドロは眺めていた。

「キャンディが欲しい?おいしいキディキディのキャンディだよ」

女の声がした。歌うように美しくやさしい。

華姐。

サンドロは戦慄した。思わず振り向いた。着ぐるみの顔だけが露出していた。華姐だった。

「さあ、キャンディはもっとあるよぉ」

気が遠くなるのを押さえながらサンドロは走った。声が聞こえなくなるまで。

もう自分がどうなっているのかわからなかった。華姐。電華に映るお前はどこにでもいるって、本当だったのか、俺の頭がおかしいのかどっちなんだ。

走っても走っても、街頭モニターは華姐の顔を映していた。数日後にクランクインする映画の宣伝だった。

だが追いかけてくる幻影にサンドロは本当におかしくなりかけていた。

黒いデロリアンの中でロゴスは爆笑していた。

「これぐらいのお仕置きじゃ足りないぜ」

妖炎は「あの声はどうやったんだ?華姐の声だったぞ」

「なに、録音とつぎはぎさ。なんだったら変声薬を使ってもいい。気持ち悪いからつかわねーけどな」

妖炎は俯いて深く考え込んだ。

華姐は本当にヤツにカードを渡す気なのか。信じられなかった。

「妖炎小龍、姐さんはまだ愛しているんだろうよ」

ロゴスは華姐の顔で微笑した。

妖炎は泣きそうな顔で言った。「その顔で微笑しないでくれよ…」

サンドロは朦朧としながら繁華街をふらついていた。

やがて力つきて細い路地の陰に座り込んだ。

そう、妖炎が昔そうやって隠れていたように。

暗い路地の陰間に。

華姐の優しく歌う声が聞こえる。

街頭モニターの中で歌っている。

サンドロはおののく元気もなくうなだれていた。

どうあっても叶わない夢を見ているように。

黒いドレスの裾が見えた。

また幻覚か?

サンドロは顔を上げた。

戦慄。

華姐が微笑んでいた。

豊かなウェーブの髪が彼を包み込むように垂れていた。

サンドロは声もでなかった。

「これ、必要なんでしょう?」

華姐は黒いクレジットカードをサンドロに差し出した。

「うわああああ!許してくれえええ!華姐、俺を殺さないでくれえええ!」

サンドロは逃げ出そうとしたが腰を抜かしてその場にうずくまった。

華姐は微笑している。

街頭モニターのCMがすべて華姐のCMになる。

そう、華姐はどこにでもいるのだ。

「愛しているわ、いつでも、いつまでも」

それが華姐の言葉だった。

華姐の微笑は無垢で穏やかな闇を映していた。

サンドロの目には街に幾重にも重なり広がっている華姐の微笑が映っていた。

「ねえ、サンドロ…」

世界はまるで万華鏡のように。

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